バー巡礼 |
まあアルバイトだからたいした仕事はできない訳だが。
セリナヴィレッジの地下にあるこの店は100席ほどの大掛かりな店。
設計は赤坂の“スコッチバンク”のデザイナーで店頭には“HAIG”なるスコッチウイスキーがグリット棚に整然と並んでいた。
アルバイトの小僧は毎朝(夕方だが)1本一本これを丁寧に拭くのだ。
サン○リーからスポンサードされているこの店では他の酒があまりない。
一番人気は“IWハーパー”次いで“CC(カナディアンクラブ)”
店でかかる音楽は“ドナルドフェーゲン”とか当時A.O.Rとか言われてたやつ。
お酒の弱い女性のために“カクテル”も用意していた。
10人ほど座れるカウンターにはいつも女性客が陣取っていたっけ。
カウンターの中には店屈指のナイスガイが会話も軽やかに接客していたからだ。
いつぞやスタッフ不足からこのカウンターの“ナイスガイ”の一員になった事がある。
ご覧の風貌(って知らない人は知らない)に付きちょいと無理のあることだ。
カクテルのアンチョコがカウンターの正面下(客からは見えない)に貼ってあって
軽やかな会話なんて出来やしない!
“寡黙なふつ〜の男”に客は愛想も振りまかない。
やっと話しかけて来た客の台詞が
『“ボディービル”やってんですか?』
・・・・今でも忘れない。
ようするに向いてないのである。
そんな私だが早番で上がっても帰宅せず“ナイトクラビング”と称し
当時全盛だった“カフェバー”や“ディスコ”で始発迄飲み歩いていた。
ナイトクラビング!!良い言葉だ。罪悪感が全くない。
午前様には変わりはないが、『夕べはナイトクラビングでさ〜』
今聞くとめちゃめちゃださいが、次の朝(夕方だが)店で自慢げに話したものだ。
表参道の“キーウェストクラブ”や霞町(現、西麻布)“レッドシューズ”
六本木“NAVANA”や“MAGGY”は提携店もありよ〜いきました。
“MAHARAJA”はこの後に出来たと思うけど流行が代わっていて自身適合できなかったのを思い出す。(っていうか踊りはあまり好きじゃないし、タコ踊りだし)
ああ、バーラジオにもすでに行ってたと思う。“狭い”“暗い”“高い”の三拍子。
味の善し悪しなんてさっぱりわからない頃だ。
踊らない日は“カラオケ道場”なる(ステージパブみたいなもの)店へ。
たしかアイビスのよこっちょにあったと。
ここでステージに上がって段取りに挑戦する訳だ。
字幕スーパーの無い時代で、しかも5段からは暗譜である。
初段から名人迄あったのだが自身“6段”止まりだったかと思う(暗記苦手!)。
昇段すると数字の分だけボトルをくれる訳だ(6段なら6本)。
道場だけのことはあって“歌手の卵”や歌自慢が続々登場し連夜にぎわっていた。
結局今の暮らしと変わんない感じなのだね。
青山のデザイン事務所に勤めるようになったらやっぱり“バー”だ。
外苑西通りには数件のバーがあり、よくかよいましたっけ。
まずは“2nd Radio”言わずと知れた名店だがここの店主にはよく叱られた。
客に説教する店なんて滅多じゃない。
今考えると“彼の怒りも然り”であったことに気づく。
ちなみに“ペルノのソーダ割り”を頼んだときは
『捨てさせていただきますからお安いグラスでお出しします。』
と言われて驚いた。
何でも、カクテルには使うがストレートでグラスに注ぐとグラスに香りが移って取れなくなるんだと・・・以降どんな店でも言われた事はないが。
あまりにもうるさいからいっつも“ドライマティーニ”か“サイドカー”
良くて“ブルドック”(別によか〜ない)しか頼まなくなった。
そして向かいの通称“石のバー”名前忘れた!
男性二人でやってる店だけどあまりにも寡黙で男性客が多かった。
店の奥に(カウンター)小さいテレビがあって当時のサッカーの試合(Jリーグはまだ無い)を見ていた記憶がある。
バーラジオと遜色無い味(と思っただけだが)で価格は半分。
必ずと言っていい程知り合いが現れ閉店迄飲んでしまったことが記憶に新しい。
こうして、味というより居心地重視で店を選んでいたんだなと。
それは店主の気だて(寡黙で結構)とそこに流れる時間と空気感。
そして逆にそこから生まれる常連のメンツが店を作るのだと言う事だけはわかって来た気がする。